2011/03/19

東日本大震災の衝撃と月明かり



3月19日20時24分函館大森海岸で撮影

 3月11日午後に東日本大震災を引き起こした超巨大な自然エネルギーは、津波によって多くの人間の営みを瞬時に奪い去っていった。毎日繰り返される、衝撃的な映像は私の心も打ち砕いた。現在でも多くの被災者が救助の手を待っている。そして、電気も油もない食料も水もない避難所生活を余儀なくされている数万、数十万の国民。そして、福島の原子力発電所の地震、津波の被害による放射能事故は、ブログを書くことも躊躇わせるほどの衝撃であった。

本音を言うと、とても選挙どころではない心境だ。当然、国民感情や通常の感覚であれば選挙の延期を行なうのは当然と思えるが、こんな国家的危機の中にあっても党略的な考えしか持てない政党が多く、一部被災地を除き3月24日から選挙戦に突入する。選挙になる以上は、有権者に政策を訴え、選択肢をはっきり明示するのが政党そして候補者としての当然の勤めである。

今夜は大きな円い月が函館のまちを照らしている。電気の復旧していない東北の被災地にはいっそう明るい月の光が届いているのではと思う。月明かりは海峡を照らしている。その向こうの暗闇には活断層が走る傍に建設中の大間原子力発電所がある。23キロメートル、その間には隔たるものはなにもない。

3.11(さんいちいち) 原子力の上に成り立つ私たちの豊かな生活、決してクリーンなエネルギーではないことが多くの国民にも理解されたのではないだろうか。われわれは資源のない国で原子力に頼らずにも豊かな生活が可能な社会が実現できることを国家の機軸にすえて、技術研究開発に力を入れその技術を他国にも伝えていくことがわが国には求められているのではないだろうか。

3.21は函館大火のあった日である。77年前の1934年に函館市住吉町から発生した火は当時の函館市街地の3分の1を焼き尽くし2166人の死者、9485人の負傷者、11105戸が焼失するなどの大災害となった。このとき函館には全国各地から多くの義捐金が寄せられ、この義捐金をもとに函館共愛会がつくられ住宅、託児所、罹災した市民のための失業者対策事業なども行なっている。

そして、当時の坂本市長のリーダーシップのもと、復興都市計画が策定され現在旧市街地にみる、グリーンベルトや耐火構造の的場中学校、高盛小学校などが作られた。
当時の函館は全国の10大都市のひとつ、そのまちが危機に瀕する状況となった、翌年、市民を元気づける目的で函館港まつりが開催され現在まで続いてる。

日本共産党は東日本大震災の被災者救援の募金を行なっています。現在全国で6800万円もの募金が寄せられています。函館でも本町や函館駅前、美原、湯川の街頭から救済募金の訴えを行なっています。明日3月20日午後0時から本町の旧グルメシティ前で行います。

今後「災害に強いまちづくり」を積極的に提案していきたい。

2011/03/10

知事、道議選挙投票日まであと1ヶ月


 今朝は恒例の深堀町電停前での朝宣伝

天気はとても良かったのですが、肌を切るような冷たい風が肌を突きます

私が立つ場所は深堀町です。
放射4号線と中環状線が交差する、とても交通量の多い交差点です。乗用車、タクシー、バス、市電、デイサービスやデイケアの送迎車も前を通り過ぎます。

ここは駒場町と柏木町の境界ともなっています。実は市電深堀町電停は、柏木町になるんですよ。
昭和11年までは、ここは函館市と亀田郡湯川町の境界線でもありました。



今朝の深堀町電停前での宣伝では、介護保険制度が出来て10年後の現在の問題点、高齢者福祉の充実、国民健康保険料の引き下げ、函館の景気回復のための住宅リフォーム助成制度などの話しをしました。





市電が5分おきに通り過ぎます
谷地頭行き、どっく前行き
湯の川行き、駒場車庫前行き

その後、人見町の住宅街の街頭6ヶ所から
政策を訴えました
午後は政策宣伝カーに乗り、古岡ともや道議予定候補と一緒に若松町、海岸町、大縄町の街頭から政策を訴えました
 
 今日3月10日は東京大空襲記念日
 そして、東京都平和の日
 私の母方の祖父母はともに埼玉県出身


松見通から見た雪をかぶる横津連山の烏帽子岳

                               戦前は東京都内で生活をしていた祖父母ですが満州の奉天(現在の中国・瀋陽市)に渡り、終戦後、ソ連軍に追われ命かながら日本に引き上げてきました。
東京は焼け野原です。函館には縁のない祖父母が函館に来た活するようになりました。
東京大空襲は一夜にして10万人の尊い命が犠牲になったアメリカ軍による大量無差別攻撃です。

そして、今日3月10日は語呂合わせで佐渡の日でもあるそうです。
佐渡の姓名で一番多いのが、本間姓です。
祖父は佐渡郡真野(現在の佐渡市)出身で
                                次男坊でした。長男は代々勘七と名乗ってきました。と言っても歴史は浅く初代が亡くなったのは天保年間です。鎌倉、室町からつづく本間氏、佐渡本間氏の歴史が見ると本当に歴史が浅い勘七家です。 私はいま、数年前からルーツをたどる旅をして我が家の家系図づくりを行なっています。                         

2011/03/09

マイ宣伝カー本日デビュー

古岡ともやさんと一緒に手を振る 本間かつみ

雪舞う、今朝の千代台町の事務所前

毎週火曜日の事務所前での

朝の定時定点の模様です

今日は、はじめてマイマイク、マイスピーカーから音を出しての宣伝







写真のバックに写るのが、マイカーです

古岡ともや道議予定候補と5分交代でマイクを握りました

古岡さんと私の間でプラスターを持つのは、花井泰子元登別市議です

                               

2011/03/08

新幹線待つ函館の函館駅には新幹線は来ず





今朝のJR函館駅
ロタンダと呼ばれる円形の構造物が特徴です

写真で見ると、まるで潜水艦のようです

ロタンダは船の煙突(ファンネル)にも見えます











駅前の北洋ビルの壁面には
「旅が、仕事が、暮らしが、街が変わる。
2015年 北海道新幹線新函館開業」
の横長の横断幕













函館駅南口正面、
といっても函館市民はあまり南口とは言いませんが

和光ビルには

「祝 東北新幹線 新青森開業おめでとう!」
「つながります!未来の架け橋!
     2015年北海道新幹線新函館開業」

2本の縦長の横断幕が掛けられます

いよいよ函館に、次は函館への機運高まる
函館駅前ですが、新幹線は函館駅にはやってきません

2011/03/07

月と木星の競演

                               

午後6時、西の空に三日月が出ていました

三日月の左下には人一倍輝く星が

木星です

JUPITER

ホルストの組曲「惑星」の第4組曲 木星が

脳裏をよぎりました

平原綾香のJupiterから

「望むように生きて 輝く未来を」

いまの私にぴったりの言葉が見つかりました 


3月7日 日乃出町から撮影





函館から北方領土を考える①

函館市湯川支所前

 2月7日が北方領土の日と制定される過程で、日本共産党は5月7日を千島の日にと提案しました。

 前者は1855年2月7日択捉島と得撫島の間をロシアと日本の国境と決めた日魯通好条約の締結された日、後者は1875年樺太をロシア、千島列島は日本の領土と定めた、樺太千島交換条約が締結された日です。

 戦争に勝って、手に入れたわけではなく、話し合いによって全千島は日本の領土となりました。 このことからも歴史的に全千島列島が、日本固有の領土であることは明らかです。

第2次世界大戦末期、日本と当時のソビエト連邦との間に結ばれた中立条約を一方的に破り、
対日参戦をしたソビエト。その背景にはルーズベルト・米大統領、チャーチル・英首相、スターリン・ソビエト首相がヤルタで結んだ秘密協定があります。ソビエトの対日参戦の条件が樺太、千島の領有だったのです。 ソビエトの対日参戦の結果、多くの民間人の血が流され、8月15日終戦以降にも尊い命が犠牲となりました。

樺太引揚者上陸記念碑(函館市大手町)

武力を持たない多くの民間人が犠牲となったのは、本当に許されない暴挙です。
日露戦争の勝利で手に入れた樺太(サハリン)を放棄することは当然だと思いますが、千島列島は1875年の条約によって平和裏にわが国の領土となったものです。

しかし、日本政府はサンフランシスコ講和条約で千島を放棄してしまいました。その後、国後、択捉は千島にあらずと主張しはじめましたが、この主張は国際的には通用しないものです。 


領土問題をわかりやすく解説した、書籍とパンフレットを紹介します。


「千島問題と平和条約」 不破哲三著 新日本出版社 1998年初版 定価840円

「尖閣諸島・日ロ領土・北朝鮮の砲撃問題を考える」日本共産党中央委員会出版局
                            2010年12月25日  定価100円

2011/03/06

はこだて街角点描   函館の西端、山背泊の町並みを歩く

集魚灯をつけたイカ釣り漁船が並ぶ


たくさんのイカ釣り漁船が並ぶ
函館漁港の光景

五稜郭を設計したことで有名な武田斐三郎は
弁天岬台場も設計している

新撰組の最後の戦いの場となった台場は、その後取り壊されるが、明治29年に建設された函館漁港の船入間防波堤の石積み護岸としていまに遺る
近代土木の父、廣井勇博士が設計した石積み護岸は、土木遺産となっている


現在の入舟町15番~22番までは、昭和40年まで山背泊町と呼ばれていた。山背(やませ)とは東風のこと、泊(とまり)は船を停泊させるところの意味で、函館山がやませをさえぎり波がなく安全に船を停泊させることが出来ることから名づけられた地名

江戸時代からつづく地名だったが、昭和40年の西部地区住居表示実施で他の歴史的地名とともに失われ、新町名「入舟町」が誕生した

御影石で出来た旧町名の石碑


地名は歴史的遺産としての意識がまだなかった時代、この時期に全国の多くの歴史ある地名が失われた

細く狭い道は奥へ奥へと続く
小学低学年の頃、家族そろってこの道を海水浴場へ向かって歩いた。ジリジリ照り付ける陽射しとミンミンゼミの蝉時雨の中を父と母と弟と  

映画トップ・ガンが上映されていた頃、この道の最奥部のペンギンズ・バレーという店に初めて寄った、夕陽が美しいと評判の店で食べた、シーフードカレーの味がいまでも忘れられない

山背泊には新潟県出身者が多いという、佐渡で生まれたイカ漁が佐渡衆を中心にこの函館へ伝わったのだろうか

海水温が上昇し日本列島に猛暑をもたらした。地球温暖化
の影響は、この地域の漁業にも大きな影を落としている



山背泊の町並み



高温に弱いイカは、海水温が低い函館だから生け簀イカとして生きたまま市場に出荷出来ていたが、昨年の海水温は異常に高く不漁に加え、海水温が高く水揚げ時にイカが死んでしまい、活イカとして提供できない事態となった

いま、前浜での水産資源の減少と燃油の高騰から出漁を見合わせる漁業者たちもいる、TPPの問題、水産資源の管理と持続可能な漁業経営を地元漁業者たちと一緒に考えていきたい

2011/03/05

ラストラン















日韓ワールドカップが開催された2002年、

それから9年、ずっと君は僕のそばにいた、

たば風吹く、江差のまちは、

下町、上町、2階建てのまち、

追分流れる新地の町を颯爽と、

北を目指してたどり着いた宗谷岬、

札幌へのスクーリング、道立太陽の園、

レポート持って走った深夜の中山峠、

118209㎞

地球約3周分の道のりを

一緒に歩んだ9年間

本当にありがとう 


                              
                      9年間乗った愛車に本日、別れを告げました。
                      今日からは屋根にスピーカーが載った
                      プラッツが4代目の愛車となります
                               

2011/03/04

100年後の函館の姿?


通称「高台」から函館山を望む(亀田本町)

函館の玄関口、JR函館駅前にはいたるところに空き地が広がっている。

函館駅の次は五稜郭駅、この間3.4Km
いまや1本を除いて特急列車の停車駅となっているこの五稜郭駅前は函館駅前以上に空き地が広がっている。

函館市亀田本町。昭和48年12月1日函館市と合併するまで亀田市本町と呼ばれていたところだ。昭和30年頃まで低湿地帯が広がっていたが、その後、住宅街化して駅前には商店街も形成、昭和53年まで市電の終点もあった。

 この亀田本町にはJR函館本線と並行して南北に国道5号が走る。以前は片側1車線の田舎道だったが、国道5号亀田拡幅事業で幅員55m、片側2車線の立派な道路になり渋滞も緩和された。拡幅の結果、国道沿いにあった商店街はなくなった。道路改良の結果、交通アクセスが改善され大型電機量販店が2店舗立地している。


トキの家(青いトタン屋根の住宅)
 五稜郭駅の裏(線路の反対側)には市立函館病院の建物が威容を誇る。

国道の東側、JR線路と反対側は広大な原野の中にポツリポツリと家が建っているとの表現がふさわしいほど、空き地が広がっている。中には主を失った家が自然に朽ち果てる過程の中にあるもの、すっかり朽ち果ててばらばらになっているところもある。

映画”海炭市叙景”で「ネコを抱いた婆さん」トキの住居として登場する家もこの一角にある。
映画では、ここは再開発される土地として描かれる。立ち退きを拒否するトキを説得に訪れる市役所職員を俳優・山中崇が演じている。

 この五稜郭駅前の広大な土地の所有者はH社と聞く、函館の大規模土地所有者は建設するよりも、建物を壊して、空き地にするのが好きなようだ。函館駅から3.4Km。札幌に例えるならば札幌駅から3.9kmの琴似駅前に相当する、大変便利で立地条件も良い場所である。五稜郭駅前を民間活力によって再整備する必要がある。高層と低層の共同住宅を建設して人口増を図る、高齢者と若者が顔の見える形で生活出来るような居住空間を目指す。五稜郭駅前が人口増で活気が出ると、その恩恵は函館駅前・大門地区の集客にもプラス効果をもたらすだろう。

 いま函館の中心市街地の空洞化は目を覆いたくなる状況、2035年の人口推計は17万人、何もしなければ100年後の函館は五稜郭駅前のような姿になってしまう。そうならないためにも、大規模土地所有者の方々は、これ以上地価が下がり、資産価値が目減りする道ではなく、土地を有効活用して函館の衰退を食い止め土地の資産価値を高める道を選択してもらいたい。

2011/03/03

ペリーも歩いた街角で政策を訴える


演説する本間かつみ(中央)
  
 今日は桃の節句、ひなまつりです。公立高校の入学試験が行なわれました。
 しかし、最高気温はマイナス1.6度、真冬日の函館。積雪は2cm、幹線道路からはすっかり雪がなくなりました。

 今日は、古岡ともやさんと一緒に、政策宣伝カーは古い町並みが続く、函館西部地区方面を走りました。

銀座魚菜市場、
東坂、
大黒市場、

最後は弁天町と大町の境界で、ハンドマイクで宣伝を行っていた事務所のみなさんと合流して宣伝を行いました。(写真上)

ペリー来航時に描かれた絵図にそっくりの風景



ペリー艦隊が入港したころは、松前藩が治めていた函館。1821年(文政4年)の古地図に照らせば上の写真の白い軽乗用車の場所が海岸線でした。そのすぐ右側に松前藩の沖の口番所(いまで言う税関)がありました。
 
 おそらくペリーたちは、そこからこの前を通り1本西側の会見所に向かったのではないかと想像しました。
 
 函館滞在中、ペリーたちは函館はおろか近郊の農村部まで丹念に調査を行ない。港の水深を図ったり、港で採れる魚介類、ビタミンの供給源として農村で採れる野菜の種類、安全な飲料水の供給などなど、短期間に調べ上げています。その結果、開港場として申し分なしと太鼓判を押しました。

 現在も米軍艦船の入港時に調査が行なわれています。「友好親善」「乗組員の休養」という建前だけを見るのではなく、彼らの意図も注意深く見ていかなければなりません。米軍はアメリカの国益のために最前線で働くのが主要目的です。「乗組員の休養」といいますが、母港の横須賀や佐世保までは日数はかかりません。また民間港に入港する理由にもならないものと考えます。

 日本に開国をもたらしたペリー艦隊の来航でしたが、いま菅直人民主党政権は第三の開国、平成の開国と称してTTP環太平洋パートナーシップ協定の締結へ向けて動いています。日本のTPP参加は環太平洋の経済的覇権を狙うアメリカ政府、経済界にとって、日本の市場開放に好都合です。食料主権を投げ捨て、労働、医療、福祉、保険分野、あらゆるサービス分野が自由化される、その先にあるのは開国ではなく壊国です。このTPPに最も積極的な政党はみんなの党です。風や雰囲気に流されることがないよう、本間かつみもTPPについて街頭から積極的に訴えています。

雪山なくなり、季節は春へ、政治の春の到来めざし街頭へ


季節は着実に春へと進む

毎週木曜日に行なっている市電深堀町電停交差点前での街頭宣伝。

今朝も古岡ともやさんと一緒に元気よく、政策を訴えました。今日は5分おきにバトンをつなぐようにして交代で演説を行ないました。

今日は3月3日ひなまつりです。
横断歩道の雪山も写真のようになくなりました。

2週間前にはヒマラヤだった雪山は、一週間前には小さな函館山にと雪解けが進みました。

今朝はここで、乗用車とタクシーの追突事故がありました。道路状態が良くなってきましたが、油断禁物、動く凶器でもあるクルマです。私もあらためて慎重な運転を行いたいと思います。


古岡ともやさんともに街頭から手を振る
昨日は、運転する車のラジオから、経済的理由で受診できず71名死亡との全日本民医連の調査結果がニュースで流れていました。
今日のしんぶん赤旗で詳しく報道しています。

また同じラジオからは、私たちと一緒に住宅リフォーム助成制度の実現の先頭になって頑張っている民主商工会のCMが流れていました。

今朝の北海道新聞には旭川市「国保料2万円超下げ」新年度 札幌市などの水準にとの見出しで新聞報道されました。

多くの旭川市民と日本共産党の市議会議員の粘り強い運動によって実現されたものです。

その結果、道内主要10市で函館市が最も高い保険料となることは必至です。函館でも大きな運動を起し、先頭になって頑張らなければと決意しています。

2011/03/02

函館のワイキキビーチ


函館・湯の川温泉(湯川漁港から撮影)


写真ではわかりづらいのですが、
ハワイのワイキキビーチの景観にどことなく似ているのです。

えっ、どこがと思われる人もいるかも知れませんが、そう見えてしまいました。

やはり写真ではわかりづらいのですが、
右端の汐首岬はダイアモンドヘッド、湯の川温泉のホテル群前の浜はワイキキビーチです。

ホテル群のすぐ後ろには函館空港の滑走路が広がります。

ダイアモンドヘッドは、ハワイの先住民族の言葉で「レアヒ」と呼ぶそうです。レアヒとは「マグロの額」を意味するそうです。函館のダイアモンドヘッド、汐首は戸井地区にあります。ことし1月5日東京の築地の初競りで戸井マグロが大間マグロを越える3249万円の値をつけて話題になりました。

函館山に夕陽が沈む、湾曲する防波堤はまるで
象の鼻のよう

ダイアモンドヘッドは約20万年前に噴火した火山で大きなカルデラ状の窪地があります。

湯の川温泉の約2Km先の水深30mの海底には、銭亀沢カルデラと呼ばれる火山があり、約4万2千年前に噴火をしたそうです。

そのおかげで函館にはたくさんの温泉が湧出しています。アイヌ語でユ・ペッ、日本語に訳して湯の川です。

今日、はじめて湯川(ゆのかわ)漁港に立ち寄りました、市内で一番新しい漁港です。
延長160mの防波堤はまるで、横浜みなとみらいにある「象の鼻」にそっくり。

 湯川漁港、湯の川温泉街近くにある立地を最大限に活かして、観光にも活用できないものだろうかと考えました。この漁港を発着場として、たとえば

①イカ釣り体験の漁船運行
②函館山沖を周回して函館港に至るクルーズ船の運航
③ペリー艦隊の入港ルートをたどる旅
④青森県大間に渡る津軽海峡クルーズ
⑤地元の漁師さんとタイアップして水揚げされたものをすぐに、調理して食べられる企画
⑥漁業体験(体験学習)
⑦ホテルの調理長と共同で未開発の海の幸をブランド化する企画

これらを湯の川温泉のホテルの宿泊とセットにした旅行商品として売り出すことは出来ないだろうか。 多様なメニューを揃えることで、新規観光客増と新しい函館の魅力を発信してリピーターを増やすことで、地域の経済発展と雇用増につなげることが出来ないだろうか。

2011/03/01

セジャ ベンヴィンド ア ハコダテ


一期一会
  
 毎週火曜日に行っている、朝の和光前での
街頭宣伝。今朝は私たちが来る前から、函館
駅前のカーブを行き交う市電をカメラに収め
ようとシャッターチャンスを狙う撮鉄の男性
が。 撮鉄(とりてつ)とは鉄道撮影がメインの鉄道ファンのことを言います。

 街頭宣伝中には、男女の観光客が近づき興味深そうにカメラを向けられて来ました。 私も演説を一時中断して記念撮影に応じました。そして、私もお願いして撮ったのがこの写真です。ブラジルのサンパウロ在住の日系ブラジル人の男性で奥様と函館へ観光にやってきたとのこと。一昨日、2月27日に行なわれた、東京マラソンに参加されたとのことで、首からぶら下げているのが、その完走者のメダルです。 男性のご先祖は、熊本県、奥様のご先祖は福島県の出身とのこと。函館で美味しいものを食べて思い出を持ち帰ってまた函館にいらしてください。 「セジャ ベンヴィンド ア ハコダテ」 ポルトガル語でようこそ函館へ