2011/02/28

自由の女神 函館の聖地に再び

再設置された女神像
「自由の女神」再設置、北海道新聞夕刊の記事を見て、さっそく現地に足を運びました。

 この周辺は、亀井勝一郎が「家の周りに世界の宗教が集まる」と言ったほどに各国の宗教があつまり、長い間対立をしてきたローマカトリック教会と東方正教会の教会が隣接するなど世界的に見ても稀有な地域となっています。

 函館開港以来100年、150年かけて形作られた、景観、雰囲気、空気というものがそこにはあります。現地に立ってみないと分からないものです。

 この環境を大切に守ってきた、これからも守っていきたいと多くの市民や函館に何度も足を運ぶ函館好きの観光客は考えていると思います。私はそう思う市民の一人です。
                     

女神像(左)の奥にカトリック教会(右)が見える
 元町カトリック教会がライトアップされ夜闇の中、一際美しい姿が浮かび上がります。おりしも今夜ははこだてイルミネーションの最終日。女神像はどういう思いで二十間坂のイルミネーションを見つめているのか。

 私は「自由の女神像」を置くこと自体には反対はしない、その設置場所が問題なだけです。残念なのはこの設置をすすめる企業が函館の企業だと言う事です。

 函館に生まれ育った私には、この場所は函館にとって歴史的、文化的にも他に変えられない、後世に受け継ぎ守っていかなければならない場所のひとつということがわかります。 函館の人気はこの変わらない函館らしい景観があるためともいえます。その景観があるからこそ、リピーターとなって2度3度も函館に足を運んでいただけると思います。

二十間坂のイルミネーション
  
 函館で商売をするのであれば、販売する商品に責任を持つのはもちろん、商売をする土地の歴史、文化を学び、尊重する姿勢も求められると思います。

 この自由の女神像は、この企業、店舗の広告塔に過ぎません、この場所にはあまりにも不似合いだと思います。女神像に
はもっと他のふさわしい場所があるはずです。



元町カトリック教会

 ニューヨークの自由の女神像は、アメリカの独立100年を記念してフランス政府から1886年に贈られ設置されたものです。日本とフランスとの交流は1844年、函館とフランスとの交流は1855年に遡ります。

 いま函館にはこの日仏文化交流によって、たくさんのフランス文化が根付いています。カトリック教会、修道院、私立の中学、高校、レストランなどなど。五稜郭で行なわれている、市民創作「野外劇」もフランスルピデュフ村の野外劇を参考に毎年、市民や観光客に感動を与えています。その五稜郭もフランス人軍人、建築家ヴォーバンの軍事要塞の特徴が随所に見られ、ヴォーバン様式とも呼ばれるそうです。

 函館のとくに観光地で商売を行なう企業家には、くどいようだがこの函館のもつ歴史、文化をしっかり学んでいただきたい。

2011/02/27

JR函館駅の未来は


JR函館駅

  今夜、函館駅前のホテルを会場に行なわれた「トレイン・オン・トレインが招く函館の未来」と題した講演会に参加した。

 トレイン・オン・トレインとは、青函トンネル内で高速の新幹線と低速の貨物列車がすれ違う時に生じる風圧によって貨物列車の安全性が保てないため、新幹線はトンネル内を減速して走行する必要がある。

3月5日はやぶさデビュー

 それでは、運行本数にも制約があるためにJR北海道が発想したのが、貨物列車そのものを収容する専用新幹線の開発である。現在、同社の苗穂工場でその研究開発が著についたばかりの段階であり、実現の可能性は未知数だ。


 E2系新幹線「はやて」は10両編成で座席数は814席、3月5日運転開始のE5系新幹線「はやぶさ」は同編成で731席。
 問題は5年後に開業する北海道新幹線新函館駅から現在の函館駅間のJR在来線の乗客輸送のあり方である。

 講演したJR北海道の取締役新幹線計画部長の菅野光洋氏は「アクセスはこれから検討されるだろう」と発言した。講演の趣旨とは異なるが、実現の可能性がわからないトレイン・オン・トレインの話しよりも現函館駅までのアクセスをどうするのかを早く具体化してもらいたいと思う。

函館駅西口 どんぶり横丁の夜景
 新函館に到着した乗客をスムーズに函館まで運ぶことが、JR北海道に課せられた責任でもある。
 
 当面の終着駅となる新函館で下車する乗客の数は多くはないだろう、新青森駅は青森市内にあるため市は青森駅前の新町商店街を守るために商業核は設けない方針。

 北斗市も函館市に対抗意識を持つのではなく、函館・道南地域全体の利益を考えていただきたい。新函館駅前開発(土地区画整理事業)、特に商業核をつくる動きに対して危惧を抱いている。 函館市の衰退は北斗市も他人事ではないはずである。

2011/02/26

はこだて街角点描            港町HAKODATE

あさかぜ5号


 北埠頭から発着する青函フェリー、12時10分に青森から着いた「あさかぜ5号」からは大型トラックが次々と

津軽海峡のフェリー航路は、北海道と東北、本州をつなぐ物流の大動脈です。函館港は昨年、国の重要港湾に指定され、2011年度から30億円を投入しL字型のフェリー専用岸壁が建設されます。

  函館市は現在2ヶ所に分散されているフェリー埠頭を北埠頭
                      に集約する計画です


巡視艇「ゆきぐも」

 西埠頭には、2月21日に解約式を行い一線を退いた、函館海上保安部の巡視艇「ゆきぐも」が係留されていました。3月には新「ゆきぐも」が就役するそうです  

海の警察、消防である、海上保安庁は国土交通省の所管


函館山と箱館丸


日本人がはじめて作った洋式帆船は「箱館丸」です

1988年に開催された青函トンネル開通記念博覧会「青函博」にはこの「箱館丸」のレプリカが展示されました

 幕末の有名人が、幕府の命を受け、箱館に来ています。箱館丸を捕鯨船として活用できるかを確認するために。その人の名はジョン万次郎こと中浜万次郎です。




北海道大学実習船「おしょろ丸」

  北海道大学水産学部の実習船「おしょろ丸」も西埠頭に係留されています。この辺りは公用船の係留場所となっていて、北海道や函館市、法務省などが管理所有する船舶をみることが出来ますよ。
 
観光ガイドをするときには、この場所をいつも選定するのですが、函館は見所があまりにも多すぎて実際に案内することはほとんどないのが残念です。




大濠丸


西埠頭の岸壁には「大濠丸」も停泊中でした。函館港では常連の船のようです。

船主のホームページを見ると、北海道電力知内火力発電所向け燃料油輸送専用船として運航されている船だそうです


高田屋嘉兵衛やペリーが絶賛し惚れ込んだ函館港ですが、水深が浅いこと、多年に渡って青函連絡船中心の港として、港 の中央が連絡船の航路となったために、その他の船舶の運航が制限されてきました。

 その結果、船舶の大型化などに対応するなどの港の機能の近代化が大幅に遅れた函館港。港町埠頭の整備により5万トンの船の入港も可能となりました。
 
 大型客船の入港は増えましたが、肝心要のコンテナ貨物の輸送は伸び悩んでいます。多額の税金をつぎ込んでつくられた埠頭、函館、道南の産物に付加価値をつけ、世界に開かれた港と空港を持つ函館、世界に向けて売り込む条件はあります。

2011/02/25

はこだて街角点描 幻想的な夜の元町

日本キリスト教団函館教会

 昨日まで続いた春の陽気に変わり、今日は早朝に降っていた雨はいったん上がり青空も見えていました。

 その後、寒気が入り気温が低下、午前11時頃には雪がちらついていました。夜になると氷点下まで気温が下がり、一時はふぶき模様、久しぶりに函館の街は銀世界となりました。

 今夜、銀世界の元町を歩きました。童謡「赤い靴」に登場する異人さんとは、現在の日本キリスト教団函館教会の宣教師ヒュイット夫妻のことです


酒屋さんの店先には、ひな飾りが出されガラス越しに見ることができます。季節感があっていいですね

蔵のある純和風の家屋、1階が和風、2階が洋風の和洋折衷の家屋が連なる町並みが、オレンジ色の街灯に照らされています

                  

ペリー提督銅像

 
 今夜もペリー提督は、横殴りの雪の中、一人港を見つめていました。覚えたての函館弁で「しゃっこいねえ、しばれるんでないかい」と言っている?

基坂では、ロードヒーティングの機械が湯気を出してフル回転中でした

  ライトアップされた開拓使時代の書庫、 旧道庁函館支庁舎、旧函館区公会堂、樹木に取り付けられたイルミネーションで夜の元町は幻想的です

はこだてイルミネーションは2月28日まで実施中です。足元に気をつけて
               お出かけください
          


元町公園

旧函館区公会堂

 

2011/02/24

はこだて街角点描 十字街から函館駅前へ



宝来町方面から見た十字街交差点
 
陽光一杯の午前から一転して
曇り空となった午後、最高気温は11.5℃

南西の風にあおられて、商店前の旗や幟がなびきます

十字街の交差点を函館バスの車両が通り過ぎるところです。

もともと東急グループだった函館バス、東京渋谷から東急線沿いに走る東急バスと同じカラーリングです

渋谷であれ?何で函バスが走っているのだろうと思った方もいるのでは


中央に函館市役所を臨む

電車通りから市役所を臨みます
左には一面ガラス張りの明治安田生命ビル
その奥にはモダンなつくりの高龍寺音羽ホールが見えます

1965年(昭和40年)までここは鶴岡町、その奥は音羽町でした。

幅広の東雲広路(ひろじ)は昭和9年函館大火後に復興都市計画で構想され、戦時の建物疎開で住民が移動させられ、戦後いまのような道路になりました。移住させられた中に私の祖父母たちも




3つの国道が交差する函館駅前

右は市電函館駅前電停です

その向こうに和光が見えます

開店時の和光は彩華とともに「寄り合い百貨店」と呼ばれる形態のデパートでした

現在は商業ビル「和光ビル」と呼ぶのが正しいのでしょうか

棒ニ森屋とともに函館駅前の顔的存在の和光、商業ビルとして存続したいとテナント導入に積極的な社長さん、私も応援します

函館駅前交差点は3つの国道が交差します

国道5号はここを起点に、途中「赤松街道」の愛称がつけられ小樽経由で札幌市まで、国道278号は途中「漁火通」の愛称がつけられ椴法華地区を経由して森町へ、国道279号は「海峡通」の愛称で十字街を通り、津軽海峡を越え大間町経由で青森県野辺地町につながります

コートを脱いで函館旧市街地を駆け回る


宝来町のスーパー前で演説する本間かつみ

今日は午後から市内8ヶ所の街頭より党の政策を訴えました。

 市民アンケートの結果、市民要求の多かった「高齢者福祉の充実」「国民健康保険料の引き下げ」を中心に演説しました。

 介護保険制度が出来て10年、サービスが必要な人が利用できない。

 経済的理由で利用が困難、同じ函館市内でも、旧4町村など住んでいる地域で受けられるサービスに格差があるなど、多くの改善しなければならない問題があります。

 「民間で出来ることは民間で」と、小泉純一郎元首相は良く言いました。しかし、「民間で出来ないことは官(公)で」やることが担保されて、はじめてこの言葉が成立するのではないでしょうか。

 現在、介護保険事業所はたくさんの営利企業が参入しています。私は営利企業が介護保険事業に参入することを否定するものではありません。 どの事業所も質の高い介護を追及して努力されています。

 いま必要なのは、民間の力、企業努力では成り立たない部分を限られた予算の中で、同等の質のサービスをどのように提供していくかです。
 

ヒマラヤが函館山に?


歩道の雪山も小さくなりました
 毎週木曜日午前8時に
深堀町電停のある交差点で宣伝をしています。

地元、深堀町とお隣の柏木町、人見町を担当する支部のみなさんと

1週間前には、横断歩道と歩道の接点は完全な雪の山

その大きな雪の塊は、さながらヒマラヤのようでしたが

今朝は、写真のように小さくなりました。
どこかでこの形を見たことありませんか?  

そうです、空から見た函館山そっくりです。

2月24日の朝の宣伝
 まるで牛が寝そべった姿は臥牛山です   

今日の予想最高気温は二桁の10℃

しかし、午後からは雨の予報

今日は午後から宣伝カーに乗って函館市内を回ります

2011/02/23

はこだて街角点描            ”深堀町にも春到来”


福寿草が咲きました(2月23日深堀町)

深堀町にも春到来

数日来の春のような陽気で、福寿草の花も開花しました

「学園通」沿いの、陽の当たる場所で
歩道の雪もすっかりなくなっています

福寿草 なんて縁起のよい名前でしょう
別名、元日草と呼ばれ、1月1日の誕生花

花ことばは永久の幸福、祝福だそうです

このお宅の隣は先日ブログで紹介した、ど根性すみれの咲く家です。すみれの花も春の陽射しを受けて元気に咲いています
千代台町の私の事務所前(2月23日)


夜8時、会議のため千代台町の事務所へ
見上げると事務所の上には冬の星座「オリオン座」が、

この星座のなかにあるM78はウルトラマンの故郷として描かれています

まだ2月、三寒四温という言葉があるように、
週末また冬の厳しい寒さが戻りそうです

みなさん、健康、体調管理は万全に

市電沿線は中心部へのアクセス良好


市電深堀町電停

18時の本町での会合に出かけた。

17:33自宅を出発
徒歩で深堀町電停を目指した

途中、病院、コンビニ、靴店、鮮魚店、青果店、スーパー、生花店、美容室、青果店、整形外科医院、学習塾の前を過ぎる

17:39分 市電深堀町電停に着く

電停前には薬局、ベーカリー、市場、歯科医院、理容店、餅店、古書店、スナック、居酒屋など毎日の生活には困らない

                     湯の川行きの市電8002号が深堀町電停に到着

                     私が乗る市電は、深堀町交差点で信号待ちだ

                     待つこと、4分

         17:43分 どっく前行き5系統の市電716号が深堀町電停に着いた


どっく前行き市電716号
                      
柏木町、杉並町と樹木の名前のつく町名の電停を通り過ぎる

柏木町では、柏野小学校の児童たちの「今日も乗ろうよ、今日も乗ろうよ市電に♪」という元気な声の録音テープが流れる。 

17:48分 五稜郭公園前に到着

17:49分 電停から1分で目的地に到着
自宅を出てから16分で目的地に着ける、市電沿線

車を中心とした日常生活を送っている私ですが、

5年間で1万5千人が減少して27万人台の人口になった函館、交通の利便性が高い、市電沿線への人口増加対策が必要。中長期的な視点での函館のまちづくりが必要です。

市電、バスに加え、ドアからドアをつなぐタクシーは高齢社会にもっともふさわしい交通機関だと思います。バス停や電停まで歩いて行けない、利用したくても近くにバス停、電停がない。タクシーはそれらを補完する機能があります。

車がなくても生活できるまちづくりと、北斗市、七飯町とも連携した都市政策づくりが急がれる。

2011/02/22

はこだて街角点描 ”もうすぐ雛祭り”


豊川町の街角(2月22日)

春めいた陽気で、いっきに雪解けが進む函館市内

豊川町では玄関フードの中に雛人形を飾る家があって、思わずシャッターを切りました。

雛まつりはもうすぐですね

民具や趣味の作品などをこのように、玄関先などに展示してくださると、まち歩きが楽しくなりそうです

                                      


真っ青な函館の空の上を、前日に引き続き飛行機雲が延びていました

青柳町にて(2月22日)


                     

元町にて(2月22日)


                            

元町の百年住宅の解体現場を訪ねると、住宅部分はすっかり解体されてしまいました。

バス通りに建つ白亜のマンションの姿が現れました。 
くれぐれも西部地区の歴史的風土に合うような、活用をしてほしいものです

2011/02/21

沈まぬ太陽


函館平野と夕陽(七飯町鳴川より撮影)




快晴の函館

最高気温も5度と3月中旬の暖かさ

太陽の下の函館平野では北海道新幹線の

高架橋を造る工事が進んでいます。





見上げれば、1万メートルの空の上を行くジェット機が彗星のように長い尾を伸ばしていました。

千歳から日本海回りのコースを飛行機が南下して行く、20日、日本の空からJALのジャンボ機が消えた。 

函館の1万メートルの空の上、4発エンジンがつくる雲が減り、2つ帯の雲が増えて行くのだろう。

ベテランのパイロットや航空管制官が日本の空の安全を守っている。

函館の未来に明るいニュース


写真はまちかどデジタル水族館
 『函館市の水産・海洋研究センター 道立水試が入居へ14年度開設へ』


函館市内に配布されている北海道新聞朝刊(2011.2.20)一面のこの見出しを見つけて

 思わず、よ・し・と息を呑みました。

 国際水産・海洋都市 はこだてに向けて、その夢の実現への第1歩となるからです。

 函館水産試験場の移転入居は、今後の研究機関の集積に弾みが付くものとして期待が高まります。

 2014年度の国際水産・海洋研究センターの完成、2015年度の新幹線の新函館(仮称)乗り入れは、先発後進地域と呼ばれ、戦後、長らく札幌、道央圏の後塵を拝してきたこの地域が、また先発地域になる大きな可能性を秘めるからです。

2011/02/20

五稜星(ほし)の夢


星型に縁取る電飾は、降り積もった雪の上で橙色の暖かい光を放っています

一つ一つの明かりが連なって、帯をなして五稜の星は夜の函館に浮かびます

函館の真ん中に刻まれる、五稜星は函館のまちを守る守護星



五稜郭の夢” すっかり函館の冬の風物詩となっています 

このイベントは五稜星の夢実行委員会によって、


協賛金や募金(1口500円)で成り立っています。

地上90メートルから見る夜景、函館市民の生活の灯りが広がります




今夜は対岸、大間のまちの灯りも見えました

大間のひとたちは函館の夜景は横に見えるので「横夜景(よごやげ)と呼ぶそうです

2011/02/19

ど根性 すみれ


冬の間咲きつづける「すみれ」の花
  我が家の近くのお宅の玄関前のプランターに、冬の間ずっと咲き続けている花があります。

 すみれの花です。漢字ですみれは「菫」と書くんですね。

すみれの語源は、花の形状が大工道具の墨壺に似ていることからとか。

 すみれと言えば、岩崎宏美の「すみれいろの涙」を思い出しました。1981年(昭和56年)のヒット曲で、この年の日本レコード大賞の最優秀歌唱賞作品です。

 私は深堀中学の1年生。このときのレコード大賞は「ルビーの指輪」、最優秀新人賞はマッチの「ギンギラギンにさりげなく」です。

 どちらの曲も大好きな曲で、最近、カラオケで♪

 「平凡、明星、近代映画」いまでも平凡の付録の歌本があるんですよ。 

 クラスの女子たちは好みのアイドルの写真を切り抜いていたっけ。ちなみに私は聖子ちゃんファンでした。

 この年、前年の長崎屋、イトーヨーカドーの開店に続き、函館西武が開店。函館の人口はピークを迎えていました。

 我が家の庭にニオイスミレの可憐な花が咲く、そんな春が待ち遠しい
 
 
 

2011/02/18

函館市民の声

  どうして函館はこうなってしまったのか。買物が便利だと思って、ここに家を建てたのに、いまはちょっとしたものを買うにも不便な地域になってしまいました。
 五稜郭からダイエー(グルメシティ五稜郭店)がなくなった影響は大きい。丸井は生活用品は置いていないし、丸井の裏には青果店はあるけれど日曜は休み。市場もあるけれど値段が高いしね。
 五稜郭の商店街はたくさんの喫茶店があったところだったのに、いまはもうほとんど無くなってしまいました。買い物は一つの店で済ませて終わりではなく、ウインドーショッピングをしながら街をいろいろ見て歩けるのがいいの。私は1週間に一度だけしか買物できない。日曜日にシャッターを下ろしているお店が多い。 五稜郭の地下道は、ダイエーがなくなってから通る人が少なくて怖い、友達からもあそこは通らない方がいいよといわれている。
  以前なら若者たちが歌を歌ったり、ギターを弾いたりしていたが、最近はそんな光景も見られなくなったみたい。(梁川町の女性)
五稜郭副都心の夕景

 ☆かつみの主張

 たしかに、本町五稜郭の商店街の商店街機能の低下は著しいものがあります。あるラーメン屋さんの店主さんは、グルメシティ五稜郭店が無くなったため蛍光管一つ買えない商店街になってしまったと嘆きます。グルメシティは、待ち合わせの場所にもなっていました。また、ちょっとした時間潰しには好都合の本屋さん、歩きながらちょいと立ち寄れる路面型の書店が駅前大門にも本町五稜郭にもなくなってしまいました。前者は森文化堂、後者は大文堂です。丸井とグルメシティは互いに相乗効果を発揮して、それぞれに向かう買物客は地上の横断歩道と地下道を利用していました。 

 カフェルポ、やまいち珈琲店、パーラートップス(2008年閉店、現在空き店舗)など多くの喫茶が大通りに面してありました。残念ながらいまは、居酒屋など夜の顔の店舗が大通りに面して張り付いています。ウインドーショッピングが出来るまちではなくなっています。

 1980年代の本町五稜郭界隈はヤングタウンと呼ばれ若者のまちでした。
残念なことですが、函館の商店街は地域も商店会も四分五裂しています。行啓通りの拡幅時に通りの両側の店舗を白色に統一する予定でしたが、それすら守られずに建物の色も高さもバラバラな統一感のない町並みになっています。私はまず分裂してしまった商店会を一つにまとめること、統合が不可能なら協議機関をつくること、出来れば駅前・大門や中島廉売の各商店会も参加し中心市街地に立地する商店街として客のニーズ、市民の声を真剣に聞くべきだと思います。待ちの姿勢、足の引っ張り合いでは大手資本には対抗できないと考えます。

2011/02/17

病院へのアクセスの良さ

 今夜、会議が終わり帰宅すると、狭心症の持病がある母が胸苦を訴えていた。ニトロを飲んだがよくならず、二度、三度と服用するが良くならないと、かかりつけの病院に電話した。看護師はすぐ来るようにと諭した。

21時32分 自宅から私の車でかかりつけの病院へ
21時34分 病院に着く
        すぐさま警備員に案内され、急患室へ
21時45分 階段を勢いよく下り急患室へと向かうドクター(外科医)
        心電図検査を行なうが異常なし
21時53分 廊下で待つ私にドクターが病状の説明
        消化器系の問題かもしれないので胃カメラ、CT検査を薦めたい
21時59分 帰宅       

自宅を出て帰宅するまで実に27分、自宅・病院間往復500メートル

 商店までのアクセス、学校までのアクセス、職場までのアクセス、
徒歩や自転車、乗用車など目的地までの移動手段はいろいろだが、高齢社会ではかかりつけの病院までのアクセスが最重要ではないかと思う。

 私の住む深堀町、市電深堀町電停から中央病院前電停までの市電沿線は病院銀座の感があり、安心して暮らせるまちとなっている。そして、この特徴は分譲マンションの多さが物語っている。

高齢者福祉の充実、高すぎる国民健康保険料の引き下げを訴える

事務所前で演説する本間かつみ
 雨模様の天気でしたが、政策宣伝カーは元気よく出発、今日は港町方面へ。吉川町のNTT社宅前、北浜町バス停付近、万年橋公園、港公園、市営港2丁目団地、港幼児公園、最後は古岡ともや、本間かつみ事務所前の7か所の街頭から政策を訴えました。 

 万年橋公園では、福祉タクシーの方が雨の降る中、わざわざ、外に出てきてくれて最後まで演説を聴いてくれました。本当にありがとうございます。




雨の深堀町交差点


古岡ともやさんと朝の宣伝をする本間かつみ(右)


 鉛色の雲が低く覆う朝の函館

小雨降る中の街頭宣伝でしたが
風もなく気持ちの良い朝の宣伝でした。

街角には通勤や通学、通院する市民たちがつくる大きな傘の花が咲いていました。

消費増税8割賛成という今朝の道新の世論調査の結果をふまえ、消費税増税論の問題点などをお話ししました。

夕方からはまた雪の予報が出されています。

2011/02/16

函館、ナポリ、ウッズホール


ロワジールホテル函館にて
  世界三大夜景は函館、香港、ナポリだそうです。将来、国際水産海洋都市といったら函館、ナポリ、ウッズホールと呼ばれる時代がくるかも?

 ロワジールホテルで開かれた、函館国際水産・海洋都市構想シンポジウムに参加してきました。「これからの水産・海洋研究の展望」をテーマにパネルディスカッションが行なわれました。函館の持つ優れたフィールドと産学官が連携して進めるこの構想に函館の未来に対する大きな可能性があることを各パネリストの発言を通じて伝わりました。 メモから各氏の発言を紹介します。

未来大学はマリンIT、メディカルIT、モバイルITの3つの柱で研究開発をしている。
海洋観測をするユキビタスブイやリアルタイム海洋表示を開発、青森県十三湖のシジミ貝のトレーサビリティーやマリンブロードバンドの実験をしている。函館の都市のサイズは他機関との高い連携を進めるのに好条件。国際水産・海洋総合研究センターが出来ると、サイエンスコミュニケーション、市民との交流の場となる施設となる。市内の高等教育機関の連携(キャンパスコンソーシアム)も進んでいる。ここに医学部が加わることで、総合大学的なものが可能となる。  
                     (公立はこだて未来大学学長 中島秀之氏)

函館高専では、年間200トンも廃棄されるイカ墨は良質な黒色色素なため、食品廃棄物の有効活用をしようと函館工業技術センターと共同研究をした結果、顔料として化粧品メーカーなどが関心を示している。ホタテの貝殻も年間3、4万トン廃棄されている。これを活用して粒の細かな炭酸カルシウム粒子が出来る。函館は水産業のほか観光業がもうひとつの主要産業、新しい観光素材として科学を加味したサイエンスバイオツーリズムを進めても面白いのではないか。アジアから来た観光客が悪天候で夜景を見れずにがっかりさせないよう函館山ロープウェイ社の提案で5名の学生が「メガネ型夜景ビューアー」を開発。 (函館工業高等専門学校校長 岩熊敏夫氏)

市内各地にある多くの機関が研究センターという一つの建物に入ることはメリットが非常に高い。未来大学はじめ、水産試験場や七飯にある淡水試験場とも共同研究が出来るのではないだろうか。 (北海道大学北方生物圏フィールド科学センター センター長 長谷川周一氏)

◆海に面した研究所、その前の岸壁には北大の実習船、新おしょろ丸が繋留される。大学にある大型水槽で、イカがLEDでどう動くのかなど、新しい海の科学をつくっている。
宇宙に匹敵するくらい海は未知の世界。深海の海底の泥の中の微生物から人類にとって非常に有効なものが見つかるかも知れない。センターは起爆剤となるもの。
              (北海道大学大学院水産科学研究院 副研究長 桜井泰憲氏)

函館マリンバイオクラスター事業6年間の成果はガゴメは150件を超える商品となり、40億円の売り上げ。現在、函館の前浜には未利用の持続可能な資源がある、それらに付加価値をつけてブランド化できれば世界に売ることが可能だ。 
 文部科学省による、マリンバイオクラスター事業はセンターが完成する直前に終了する。これからは、経済産業省からお金を持ってくることも大事だが、外部資金だけをあてにするのではなく事業化が必要。センターを核に事業展開が可能になるだろう。
(北海道立工業技術センター研究開発部長 宮原則行氏)

渡島、檜山海域を担当している。いまガゴメが先に走っているが、あれは勿体ない。ガゴメにはフコイダンが含まれ体に良いと言われているが、どのように効果があるのかというエビデンスが出てこない。函館には医学部がないので未来大学に医学部があればお願い出来るのだが。
 ヨーロッパザラボヤは養殖ホタテに多大な被害を及ぼしたが、種類はわかったがその生態は大雑把にしかわからない。北海道大学のスタッフの力を借りて共同研究をすすめていく。(北海道立総合研究機構水産研究本部函館水産試験場 場長 渡辺安廣氏)

◆函館には多くの種類の海藻がある。食の安心安全、健康という3つの柱で研究を進めている。海の状態は今後どうなるのかわからない。そのためには海藻が絶滅した場合のことを考えて種を保存する必要がある。いまある宝を保存することも必要。海藻を利用して海域の保全を行なっていく。
 間違いなく外国の研究者が函館詣でをすることになるだろう。海だけではなく、函館、道南の陸も多くの食材の宝庫だ、海と陸の食材を活かすプロジェクトもいまから用意してセンターの完成に間に合わせることが必要。センターはまさに夢を共有して育てていく場所。
(函館国際水産・海洋都市推進機構 機構長 伏谷伸宏氏)

函館市は北緯41.46、ナポリ市(イタリア)は北緯41.03 、ウッズホールのあるアメリカ東海岸マサチューセッツ州の緯度は41.10~42.53、これら3つは同緯度にあり、 ウッズホール海洋研究所、ナポリ臨海実験所という世界でも有名な海洋研究所を有しています。2014年に旧函館ドック跡地に完成する国際水産・海洋総合研究センターは将来、函館がアジアの海洋研究拠点になるための第一歩となる施設です。

2011/02/15

函館ネオン広告物語


松風町交差点(ニュールックビルとプロミス
の広告塔があった大門クイーンビル)

  「SANYO」ネオン終了へという記事(北海道新聞夕刊2月15日)に目が留まりました。ニューヨークのタイムズスクエアと並ぶ大型広告の名所、ロンドン中心部の繁華街、ピカデリーサーカスにある大型ネオンを年内にも終了するとのことです。


 この記事を読み、函館駅前・大門地区にも大手電機メーカーの大型ネオンがたくさんあったことを思い出しました。


 函館駅側から和光デパートの上には「TOSHIBA」、ホテル第2オーシャン(現在のスマイルホテル)の屋上には「NEC」、さいかデパート(跡地にマルハン大門店が建つ)の上には「SANYO」、ニュールックビル(森文化堂があったところ)の上には「HITACHI」、そしてメルシャンハイム(1階にパチンコ大統領があった)の屋上には「富士通」の大型ネオンがありました。


 そのころ、赤字白抜きのIニ(棒ニ)の看板の上からは夜になるとサーチライトが360度回転、棒ニ森屋BONI MORIYAは灯台の役割も果たしていました。


 昨秋には、大門クイーンビルの屋上から、消費者金融大手プロミスの黄色の大型広告も無くなり、駅前・大門地区から企業の大型ネオンが無くなってしまいました。


 企業の大型広告やネオンは光害やCO2の排出など環境問題のほか景観を悪化させるものとして鹿児島市などで規制が強化されています。
 しかし、函館駅前のシンボルである赤字白抜きのIニ(棒ニ)のマークだけは末永く残ってほしい。

函館駅前和光前で朝の宣伝

和光前で演説する本間かつみ
 氷点下6.1℃、函館港から吹き付ける身を削るような海風で、体感的には氷点下10℃以下の寒さにも感じました。
 
 しかし、1週間前に比べて排雪と雪解けが進んだのか、国道の雪山は大分小さくなりました。

 今日は国勢調査で28万人割れとなった函館の人口と人口減少社会に求められるまちづくり、人口減少を食い止めるための政策などを話しました。和光デパート前の宣伝は、毎週火曜日午前8時から30分間 行なっています。.

2011/02/14

TPPから食と地域を守る 道南地域総決起集会


第2会場の北斗市総合文化センターかなでーるの小ホール
  農業や漁業だけではなく、医療や福祉、郵便など国民生活全般にかかわるユニバーサルなサービスまで破壊してしまう、TPP(環太平洋経済連携協定)に本間かつみは反対です。

 道南各地の農業、漁業団体、自治体職員、議員など1200人以上が参加した集会に日本共産党からは来賓の紙智子参議院議員をはじめ古岡ともや道議予定候補、市戸ゆたか市議、紺谷よしたか市議とともに私、本間かつみも参加しました。 

 会場に集まったみなさんと一緒に額に鉢巻きをして、ガンバローを三唱いたしました。

てけれっつのぱ

 勇気と希望が沸きました。今夜、芸術ホールで行なわれた劇団文学座による「てけれっつのぱ」を観ての感想です。原作は小樽在住の小説家、蜂谷涼さんの同名の小説です。
 
 江戸から明治へと時代が大きく変わり、文明開化の掛け声の裏で時代に翻弄された人々が新天地、北海道を目指しました。楽園の地という触れ込みもあり、本州で食い扶持をなくした多くの旧士族や飢饉で食べられなくなった農民まで、数多くの民が故郷を後に、北海道を目指しました。
 
 北海道の土地は渡島半島の一部を除いては、アイヌ民族の暮らす大地でした。私たち北海道民のほとんどは何代か前に本州から渡ってきた移民です。

 私の父方の祖父は新潟県佐渡、祖母は青森県つがる市、母方の祖父は埼玉県熊谷市、祖母はさいたま市岩槻区出身で、戦後、満州から知人を頼って函館に住み始めたようです。

 だから、私は北海道民3代目です。

 いまの日本は閉塞感が覆っていますが、「てけれっつのぱ」は希望を見失っている現在の日本人に勇気と希望を与えてくれる内容の物語です。

 

2011/02/13

函館元町の明治の百年住宅が解体される


重機が入り解体が進む旧伊藤家住宅
 今朝の北海道新聞朝刊の道南面を見て、ついに、やっぱりかとため息をつきました。最後の姿を見届けなければとの思いで早朝、車を走らせました。

 元町31番に建つ、1911年(明治44年)に海産物商が建築したれんが造りの住宅のこと。「函館の建築探訪」(1997年北海道新聞社刊)には旧伊藤家住宅として登場しています。

 数年前から、大きな看板に〇〇管理地と書かれた看板がつけられたので解体の可能性があるとは感じていましたが実際に解体される姿を見るのは本当につらく悲しいことです。 
蔵があるどっしり重厚感ある佇まい

現在の西部地区の市街地のほとんどを焼き尽くし、石川啄木も友人宛の手紙に「函館は死んだのだと僕は思う」と書いたほどの大火であった、1907年(明治40年)8月の大火以降、函館のまちにはレンガの耐火構造の建物が多く建てられました。

 1908年(明治41年) 旧ロシア領事館
 1909年(明治42年) 金森倉庫
 1910年(明治43年) 中華会館
        1911年(明治44年) 明治館(旧函館郵便局)
        1912年(明治45年) BAYはこだて(旧日本郵船倉庫)

 この建物前の市道は昨年、町並みにあわせて石畳風の舗装とガス灯風の街路灯が整備されたばかり、重要文化財である真宗大谷派函館別院と伝統的建造物の旧カール・レイモン居宅、昨年から一般公開された旧相馬邸を結ぶ道路沿いにあってその存在感は大きかっただけに残念でなりません。

 レンガの積み方を見ると、長手の段と小口の段を一段おきに積むイギリス積方式を採用しています。
 
  この土地の所有者には、この地域の歴史性、旧伊藤家住宅の歴史を伝承するようなファサードを求めたいと思います。


江差恋歌と佐渡おけさ

 毎週日曜日午前7時半から30分間、STVラジオ「香澄の江差恋い唄」という、数少ない民謡を中心とした番組が放送されています。以前は夜間に放送されていました。

 私も大好きなこの放送、日曜日のしんぶん赤旗配達の帰り道、車のラジオで聞いています。この番組、日本のみならず世界の民謡も紹介してくれます。香澄kazumiさんは江差町出身で第29回江差追分全国大会で日本一となった木村香澄さんです。
 
 私も江差診療所時代に江差町内で行なわれた香澄さんのライブに足を運んだことがあります。北海道を中心に活動する関ヒトシさんとのライブでブルース調にアレンジされた民謡に酔いしれた記憶があります。

 2月13日の放送では、民謡「佐渡おけさ」が流れていました。祖父の出身地は佐渡。亡くなる前に何度も「佐渡さいぐ(行く)、佐渡さいぐ(行く)」と言っていた祖父。まだ介護保険が無い時代、母や叔母たちの介助で在宅で看取りました。

 数年前にはじめて祖父の故郷佐渡へ渡りました。新潟港から佐渡汽船のフェリー「おけさ丸」に乗船すると出港時にこの佐渡おけさが流れます。温暖で豊富な水資源、大きな平野は佐渡コシヒカリの産地、野菜や果物、海洋資源にも恵まれてすばらしい環境の地でした。いま思うと亡くなる前にこの佐渡おけさを聞かせてあげたかったと悔やまれます。
 
STVラジオ「香澄の江差恋い唄」は函館地方では周波数639キロヘルツで聞くことができますよ。

2011/02/12

松川町のみなさんに励まされ

 五稜郭や弁天台場の工事を指揮し、現在、新興住宅街となっている石川町の開墾を行なったのが越後出身の松川弁之助です。箱館の市街地から五稜郭までの道路を私費を投じてつくり、この道路は松川街道と呼ばれるようになりますが、現在では若松町から中の橋までを通称「大縄町通り」、中の橋から道新函館支社前までを「高砂通り」と呼んでいます。


彼の顕彰碑が五稜郭公園(芸術ホール向かい側)に建てられています。1931年(昭和6年)に彼の名前を後世に遺そうと松川町が誕生しました。

 その松川町の住宅街の街頭から、党中部支部の方と講演会のお誘い、日本共産党の訴えを行いました。たくさんの方に声をかけられ、励ましのお言葉をいただきました。のど飴の差し入れもあり本当に感謝の気持ちで一杯です。途中、お豆腐屋さんに立ち寄り、つるの子大豆でつくる豆腐の日のチェックも。豆腐もさることながら、この大豆から出来るおからがまた格別です。今日は、松川町の皆さんに励まされた1日でした。

東北新幹線開業効果、函館大門に

 12日の夕方、友人たちと大門横丁を梯子しました。2件目のお店のカウンターで蟹を美味しそうにほうばる男性Tさんに声をかけました。Tさんは神戸出身の48歳、現在、東京の大手電機メーカーでシステムエンジニアをされているとのこと。Tさんに函館まで来るきっかけを聞いてみました。

 実は東北新幹線の「はやぶさ」に乗りたかったんです。しかし、はやぶさデビューは3月5日。せっかく取った休みなので、「はやぶさ」には乗れなかったけれども全線開業した東北新幹線で新青森を目指そう。特に泊まるホテルも決めないぶらり旅、当初は青森に泊まる予定だったそうですが、北海道函館まではすぐそこ、走る新幹線の中で最終地点を函館に変更、インターネットで函館駅前の格安な宿を予約したそうです。

 私の勧めで函館の冬の味覚、ごっご汁を食したTさん、私たちは新食感をもとめ、ごっこ焼きを注文。ごっこの滑り感が苦手の方はこちらがおすすめかも。

 大門横丁を出て、私たちとTさんは凍結する路面を気にしながら、千鳥足で柳小路の奥にある函館の老舗有名店へ。明日の予定はまったく考えていないとのことで、六甲山から見る神戸の夜景など比べ物にならないので、函館山からの夜景はかなず見るようにと薦めました。

 このお店、むかし閉店時にオフコースの「さよなら」が流れていましたが、いまはやめたそうです。時計の針は、気が付けば午前2時。このお店とTさんと「さよなら」しなければなりません。
 
 すこしの時間でしたが、観光の方と楽しむことが出来ました。大門横丁やバル街は市民と観光客また市民同士の出会いの場です。私はいま最も函館に必要なのは、ホスピタリティーの精神だと思っています。心のこもったもてなしの精神です。そのためには市民一人一人が自分の言葉で、函館弁を通して函館の魅力を語る必要があります。

函館ひかりの屋台「大門横丁」
 市民との暖かい出会いは、次の函館訪問の機会を生むと思います。Tさん、つぎの函館訪問は一人ではなく、彼女や奥さん、家族を連れて来てくださいね。そして函館のまちにたくさんお金を落としていただきたいと思います。職場の旅行会も大歓迎ですよ。

2011/02/10

松前藩の農業経営とTPP


1847年松前藩の奉行 
工藤茂五郎が寄贈した
亀田八幡宮の鳥居
  時代劇を見ると、何万石の大名という言葉が出てきます。戦で手柄を立てると何石加増された、領地を与えられて石高がいくつになったとかの話が出てきます。1石は2.5俵、約150キロの米で大人一人が1年間に食べる量を表しているそうです。

 米の取れなかった松前藩は、漁獲高から見積もって1万石格という身分を与えられました。サケ、ニシン、昆布、ナマコなどの海産物を商人を介して本州方面にアイヌ民族を介して中国に売ることで藩経済はとても豊かでした。そんな松前藩に転機が訪れます。黒船来航(1853年)です。215年間にわたる鎖国政策を転換して、アメリカと日米和親条約を結び日本は開国しました。

 そして箱館がアメリカに対する物資の補給港として開港すると、幕府は箱館を直轄地として奉行を起きました。幕府はロシアの南下政策に危機感を持ち、蝦夷地を東北地方の諸藩に命じて警護に当たらせました。その結果、蝦夷地全体を治め経営することで成り立っていた、米の取れない松前藩は藩経営の根拠を失います。漁業に依存していた松前藩は、農業で藩経済を維持していこうと現在の檜山郡厚沢部町館町に役所を置き開拓に取り組みます。1868年には館城を築き、松前から移転しますが完成後まもなく箱館戦争の戦火に包まれてしまいます。

 北海道の農業は道南からはじまりました、北斗市文月にある北海道水田発祥の地は、先人たちが何代にもわたって水田開発に取り組んだ労苦が伝わって来ます。その北斗市で「TPPから食と地域を守る道南総決起集会」が1000名規模で開かれます。

 菅直人首相は第3の開国と称して、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加表明を6月までに行なうとしています。いま、財界や全国紙がいっせいにTPPへの参加、農業開国を主張していますが、現在でも海外から多くの農産物を輸入しています。今日、帰宅途中に立ち寄ったスーパーで野菜、魚、乳製品、肉類の産地を覗くと、チリ、メキシコ、ニュージーランド、ブラジル、米、豪、露、伊、仏、蘭、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、中国、アルゼンチンなど実に多くの食料が輸入されています。第1次産業が基幹産業である北海道にとってTPPの締結の影響は大きく、関税がなくなってしまうと地域の崩壊にもつながってしまいます。2月14日,農業や漁業を守り育てる立場から私、本間かつみもこの集会に参加いたします。