2012/04/04

函館「まちの境い目」②中島町と千代台町



第1弾の時任町、的場町にひきつづき、
シリーズ第2弾は中島町と千代台町の境界を紹介します。


この地域はもと亀田郡亀田村字千代ヶ岱、函館市の前身、函館区に編入されて函館区大字亀田村字千代ヶ岱、そしてちょうど90年前の1922年(大正11年)に市政施行で函館市となります。

【千代台町】
江戸時代には千代ヶ岡と呼ばれていました。鶴が舞い降りることから「鶴は千年」の故事と、小高い丘になっている形状から千代ヶ岡となったと言われています。

昭和6年の字名改正のときに字千代ヶ岱をいくつかの町に分割し千代ヶ岱町、中島町、堀川町などが誕生しました。

千代ヶ岱町(ちよがだいちょう)は1968年(昭和43年)に表記をあらためて千代台町(ちよがだいちょう)となりました。おそらく「岱」は常用漢字ではないという理由からだと思われます。

しかし千代台町では、「ちよだい ちょう」としか読めません。

現在の中島小学校から千代台公園のあたりには、蝦夷地防備のために仙台藩の陣屋がつくられました。ちょうど箱館で高田屋嘉兵衛が活躍していた時代です。その後箱館の地は松前藩に復帰しますが箱館が開港地となった安政年間以降、再び幕府直轄地となり今度は仙台藩ではなく弘前藩(津軽藩)が陣屋を設け警備にあたります。ちなみに盛岡藩(南部藩)は函館山麓のFMいるかのあるあたりに陣屋を設け、いまでも立派な石垣を見ることができます。南部坂という名前の由来にもなっています。





徳川慶喜が政治を朝廷に返上(大政奉還)して、江戸時代が終わり、幕府直轄地の箱館も新政府による統治がはじまりました。最後の箱館奉行杉浦誠から箱館府知事清水谷公考へ平和裏に行政が移行して弘前藩の陣屋も役割を終えます。

その後にやってきたのが榎本武揚率いる旧幕府脱走軍です。五稜郭を無血占領し、榎本武揚を総裁とする箱館政権を樹立します。拠点五稜郭を守備するために、北には神山村の農家も動員して、新五稜郭(四稜郭)を急造し、南には旧弘前藩陣屋を利用した陣屋を設けます。地名をとり千代ヶ岡陣屋と名付けます。

地元の町会によって陣屋通りと名付けられ、正式名の「教育大通」の下に「陣屋通り」のプレートが付けられています。梁川町には以前、陣屋湯という銭湯もありました。

いまも唯一「千代ヶ岱」が残ります。市立千代ヶ岱小学校です。少子高齢化により人口が大きく減少する函館市ではいま、市立小中学校の再編が計画されています。さて千代ヶ岱の名前は残るのか?これからこの再編問題は議会でも大きなテーマになっていきます。


【中島町】
新興工業国として発展を遂げつつあったアメリカ合州国は、石油が登場する以前は燃料として鯨油を使用し、北太平洋上で捕鯨船による捕鯨が行われていました。乗員の休息、水や薪、石炭、食糧の供給先を確保したいアメリカは那覇、浦賀か神奈川、松前を補給港にするべく、フィルモア大統領の親書を持ち日本帝国へ向かいます。アメリカ海軍東アジア艦隊の向かう先は、日本の中枢に近い、江戸(東京)湾口の現在の横須賀市浦賀。浦賀は外洋から江戸に向かう国防上の重要な土地なため幕府直轄地として浦賀奉行が置かれていました。

その浦賀奉行所で与力(よりき)をしていたのが中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)です。時代劇に出てくる奉行所という言葉は実際にはなくもちろん、よく時代劇で見る「北町奉行所」や「南町奉行所」なんて看板なんてあるはずはありません。正しくは浦賀御役所です(箱館奉行所も誤りで正式には箱館御役所)。奉行は役職名です。浦賀奉行の配下が与力です。現代風に言えば奉行は道警函館方面本部長であり函館地方裁判所長でもあり道庁渡島総合振興局長で、与力は函館中央警察署長といった感じでしょうか。

浦賀に現れたアメリカ海軍東インド艦隊は、地元の長官(奉行)の面会を強硬に要請しました。しかし幕府側は要求を受け入れるわけにはいきません。この時、艦隊の旗艦サスケハナに副奉行と偽って乗船したのが中島三郎助です。その後、奉行の代理として正式にアメリカの使者と応対しました。

のち三郎助は長崎海軍伝習所に第1期生として入学し、造船学や機関学、航海術、医学、化学などを学びます。同期には勝海舟もいました。幕府崩壊後、三郎助は榎本武揚らとともに箱館を目指します。箱館政権では箱館奉行並(副奉行)となり千代ヶ岡陣屋の守備にあたります。この時の箱館奉行は永井尚志、永井は長崎海軍伝習所の総監でした。そして榎本武揚は長崎海軍伝習所の第2期生、後輩にあたります。


長崎海軍伝習所の練習船「観光丸」 長崎港で撮影(2011.8月)



新政府軍の箱館総攻撃時、三郎助は長男の恒太郎、次男の英次郎とともに戦い戦死します。1869年6月25日(旧暦明治2年5月16日)です。

中島三郎助父子最期の地碑が函館税務署近くの道路中央分離帯にひっそりと建っています。
函館には箱館戦争をはじめ数々のドラマが繰り広げられました。歴史のまち函館。パブリックアートの第2弾として歴史に名を遺す人物の銅像をつくることを提案したいと思います。
有名な中島三郎助、榎本武揚ですら銅像がありません。五稜郭から千代ヶ岡陣屋、土方歳三の最期の地とされる一本木関門、それらをつなぐ松川弁之助が中心となって建設がおこなわれた松川街道(現在の五稜郭から道新、道新から高砂通り中の橋まで、中の橋から通称大縄町通り、国道5号までの直線道路)を歴史の道として整備を行ってはどうかと思います。この道は箱館市中から五稜郭を結ぶ道として、お奉行様も通ったのではないでしょうか。「奉行街道」あるいは土方歳三が生前最後に通った道かも知れません。「土方歳三最期の道」という名前はどうでしょうか。




千代台町3番と中島町21番、この境目は電車通り、堀川町電停前にあります。中島れんばいの中で千代台町と中島町が分かれています。実はひとつの家の中で居間は中島町、台所は千代台町という現象がここでは見られますが住所(住居表示)は玄関の場所で決まります。この地域をぜひ探検してください。

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